皆さんこんにちは。合格サプリ編集部の肯定ペンギンです。
今回は帝国主義の時代を扱います。
前回は帝国主義の内容、背景などの概説をしましたので、今回は列強国ごとに詳しい出来事を見ていきましょう。まずはイギリスから。
世界帝国として
1850~70年代は「パクス=ブリタニカ」とも称されたようにイギリスが世界の覇権を握っていました。イギリスは「世界の工場」といわれた工業力と海軍力を武器に、世界に自由貿易を広めました。
しかしイギリスは逆に、非ヨーロッパ圏への貿易を拡大して対抗しました。この波は日本にも訪れています(1808、フェートン号事件)。結果、イギリスは「パクス=ブリタニカ」を形成する地盤を固めることができたのです。
当時イギリスは世界中に植民地をもっていました。カナダやインドなどです。しかし植民地経営が財政を圧迫すると、自由貿易とも反発するようになり、植民地不要論がわきおこりました。
そこでイギリスは植民地政策を変えていきます。
非白人系植民地では直接支配を強化しました。例えばインド。1857年のインド大反乱を皮切りに、東インド会社を解散し、インドを直接支配しようとします。1877年、ヴィクトリア女王をインド皇帝とし、イギリス領インド帝国が成立しました。
逆に白人系植民地では、自治政府を認める間接支配を行いました。例えば1867年、イギリスはカナダの自治を認めました。
帝国主義政策へ
前回説明したように、1870年代の不況とドイツ・アメリカなどの成長が合わさり、イギリスは自由貿易などと余裕をこいていられなくなりました。
保守党のディズレーリ首相を中心に、1870年代後半から帝国主義政策への変更を図ります。
自由党のジョゼフ=チェンバレン植民相を中心に、1890年代以降帝国主義政策をより積極的に行います。
3度にわたりイギリス植民地会議を開き、白人系植民地の自治をより広く認めました。1867年のカナダにつづき、イギリスはオーストラリア連邦(1901)、ニュージーランド(1907)、南アフリカ連邦(1910)の自治を新たに認めました。
一方、ジョゼフ=チェンバレンは、植民地の獲得が国内問題の解決につながると主張しました。アフリカでは、ケープ植民地政府首相のセシル=ローズが植民地拡大を進めていきます。
※ケープ植民地がいつイギリス領になったか覚えていますか?1652年、オランダが建設したケープタウンを発端とし、オランダ系白人(ブール人)が入植しましたが、1814年のウィーン会議の結果、イギリス領とされました。
以下ではイギリスの国内問題を見ていきます。
社会主義運動問題
1884年の第3回選挙法改正により、労働者に選挙権が広く認められると、労働者による社会主義運動が勢いを増します。
社会主義運動を時系列順に見ていきます。
フェビアン協会に始まるイギリスの社会主義は、漸進的で過激でなく、植民地拡大も支持しました。また、議会主義の枠組みの中で社会主義の実現を目指しました。
アイルランド問題
19世紀後半、グラッドストン首相が何度も主張したアイルランドの解放は、保守勢力の反対にあってなかなか実現しませんでした。しかし、1911年の議会法の成立により、上院の権限が制限されると事は進展し、1914年にようやくアイルランド自治法が成立しました。
しかし、北アイルランドは独立に反対しました。1905年にシン=フェイン党が結成され、アイルランドの独立を主張すると対立が激化しました。ここに第1次世界大戦が合わさり、自治法の実施は延期されてしまいました。これに反対した1916年のイースター蜂起も鎮圧されました。
次回はフランスとドイツを扱う予定です。それでは。