【東大世界史は大論述で差をつけろ!】 高得点を狙う解き方の基本を徹底解説!

はじめに

東大世界史の第1問では600字程度の大論述が出題されますが、用語を羅列するだけでは点数につながらない、難しい大問ですよね。

この記事では、大論述で高得点を狙うにはどうすれば良いのか、実際に過去問を見ながら解説します。

最後には筆者による過去問の回答例もありますので、ぜひ参考にしてください!

大論述を解くときに必ず意識すべきこと

【大論述のコツ】①問題文をよく読む

何より大切なのは、問題にきちんと向き合うことです。

当たり前のことですが、問題の要求・字数などを間違えないようにしましょう。

解答用紙は1行30字で、基本的に15〜20行(すなわち450〜600字)の間で字数が指定されます。

第一問だけでなく、東大世界史全体について知りたい方はこちらをご覧ください!

【完全版】東大世界史の傾向・対策・勉強法を現役東大生が大問ごとに詳しく解説

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問題文を読みながら、

  • 書くべき時代はいつからいつまでか
  • 対象の地域はどこか
  • 解答のスタイルに指定があるか

を確認してください。

また、題意に沿うためには、リード文にある抽象的な語句を具体化して参考にすることが有効です。

例えば「ヨーロッパで形づくられた国際関係」という表現があれば、「主権国家体制」と具体化できますね。

【大論述のコツ】②「書く前に!」解答の大枠を考える

自分なりに解答の「フレーム」を作ってみることで、筋が通った答案が作れるようになります。

フレームとは簡単な解答の方向性のことです。

例えば、冷戦の展開がテーマだとしたら、冷戦の勃発→雪解け→再緊張→デタント→新冷戦→崩壊 の順序で組み立てるとうまく書けそうですね。

次に字数配分を考えましょう。

「触れるべき地域が4つあるなら、字数も4つに分割しようか」、などと考えていきます。

関係する指定語句が多い時代や地域は出題側が重視している可能性が高いので、字数配分の参考にするために、指定語句を時代や地域ごとに振り分けるのがおすすめです。

字数配分の考えがまとまったら、あとはフレームを具体的な事例で膨らませていけばOKです。

ここで、解答で役立つ小技を2点挙げておきます。

  • 解答に年号まで含める必要はありませんが、時代を特定するため、○○世紀前半または後半、ぐらいは書くと良いです。
  • 読みやすさに配慮して、同じ単語、長い単語(第一次世界大戦など)は繰り返さないように注意しましょう。
論述の解き方としてこちらもあわせてチェックしてみてくださいね。

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【東大生による論述のポイント解説】手順を意識しながら、過去問の解答を自分で作ってみよう

【解答完成までの手順①】問題を整理してフレームを作る

説明した手順を、過去問で実践してみましょう。

今回は2020年度の過去問を扱います。
問題については各自で赤本や青本を参照してください。

2020年度の大論述では、20行=600字以内とやや多めの字数の中で、史料A,B,Cも利用して解答することが求められました。

それらを除けば、出題の形式は基本的に例年通りといえます。

また、テーマは「東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容」でした。

伝統的な国際関係とは、つまり、冊封と朝貢のことです。

時代は15世紀から19世紀、当時の中国の王朝としてが該当します。

次にリード文に注目すると、「ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれる」とありますが、これは主権国家体制の流入をさしています。

こうした方向性が解答に盛り込めると良いですね。

次に指定語句と史料を地域ごとに振り分けていきます。

下関条約・小中華・史料Aは朝鮮、 清仏戦争・史料Bはベトナム、条約・朝貢は全体を通して使えそうです。

一方で、薩摩・史料Cは明らかに琉球のことですから、問題には指定がなくとも琉球に触れる必要があります。

ここまで整理できたらフレームを作りましょう。

今回は、冊封と朝貢のあり方→各時代の冊封と朝貢の具体的な事例→主権国家体制の流入と冊封の崩壊、と組み立てることにします。

【解答完成までの手順②】具体的な事例でフレームを修飾していく

まず、冊封・朝貢のあり方について、

  • 中国皇帝と周辺国が形式的な君臣関係にあること
  • 冊封には朝貢が伴うこと

などに言及すると良いでしょう。

次に歴史上の事実を記述します。

まずは明代のできごとです。

明は朝貢・冊封体制を再整備し、貿易を朝貢形式に限定しました。

この中で、琉球は朝貢貿易で繁栄しました。

このことを述べたのが史料Cです。

また、李氏朝鮮、黎朝のベトナムも主要な冊封国でした。

清は異民族(満州人)の王朝だったため、周辺諸国では自らを正統な中華文明の継承者とみなす小中華意識が高揚します。

史料Aは朝鮮で芽生えたこの意識を示しています。

それでも朝鮮・ベトナム・琉球は冊封を維持し、特に琉球は薩摩の征服以後も日中両属の状態を選択しました。

最後に冊封の変容について説明していきます。

清が衰退するなか、近代化した日本と、ヨーロッパ諸国が存在感を高めます。

それらが掲げるのは条約に基づく主権国家体制です。

実際は冊封による君臣関係は形式的であるにもかかわらず、史料Bからは、フランスが冊封は清への服従であり、条約と矛盾すると考えていたことがわかります。

ベトナムでは清仏戦争で清の宗主権が否定され、琉球は沖縄県の設置によって日本に編入され、朝鮮は日清戦争後の下関条約で独立国と認められていきました。

ともかく、衰退する中国の権威を背景に冊封体制は終わりを迎え、東アジアの国際関係は条約中心になったのです。

過去問を使った勉強方法はここで紹介しています!

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【参考】東大生による解答例

東アジアには、中国皇帝が朝貢してきた周辺国に爵位を与える冊封により、形式的な君臣関係を形成する儒教的秩序が存在した。周辺国は、中国皇帝の権威を利用して国内支配の正統性を主張するなどし、恩恵を受けた。明代にはこの伝統的な冊封・朝貢体制が再建された。倭寇対策を兼ねて貿易は朝貢形式に限定され、15世紀には琉球王国が中継貿易の経営で繁栄した。(史料C)ベトナムでは黎朝、朝鮮では15世紀前半に成立した李氏朝鮮、琉球王国が冊封された。明に代わり中国を統一した清は満州人の王朝であったから、朝鮮を中心に正統な中華文明の継承者を自負する「小中華」の意識が生まれた。(史料A)その一方で朝鮮もベトナムも朝貢と冊封の関係を維持した。琉球は薩摩藩に征服されたが、貿易の利点などから日中への両属状態を選択した。清朝がアヘン戦争に敗れ、その弱体化が顕著となる中、欧州諸国により東アジアへ条約に基づく主権国家体制が流入した。フランスが進出したベトナムの阮朝では2つの体制は異なる論理をもち矛盾しないと捉えられた(史料B)が、結局清仏戦争でフランスが勝利し、清にベトナムの宗主国としての地位を放棄させた。また、近代化を進めた日本は、琉球王国を沖縄県として編入し、冊封関係を解消させた。清は朝鮮の壬午軍乱や甲申政変に介入して冊封の維持を図ったが、日清戦争に勝利した日本は下関条約で朝鮮を独立国として認めさせ、冊封体制は崩壊した。(600字)

おわりに

いかがでしたか?

大論述では、記事の内容のような方向性を意識することで、題意に沿った答案が書けるようになると思います。

頑張ってください!




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