はじめに:古代ローマ史をわかりやすく解説!
みなさん、古代ローマ史は得意ですか?
古代ローマ史は、覚えるべき内容や人名が多い難しい分野です。
事前知識がないと、細かい知識の暗記に終始してしまって、「結局全体としてどんなストーリーなんだっけ?」となってしまいますよね。
そこでこの記事では、まだ古代ローマ史が頭に入っていない人のために、古代ローマ史の大きな流れをわかりやすく説明します!
高校1年生で古代ローマ史を今から学ぶ人、もうすぐ世界史のテストがある人はぜひ最後まで読んでみてくださいね〜。
- 神余秀樹『タテヨコ総整理 世界史×文化史集中講義12』旺文社、2012年。
- まがいまさこ『図解 世界史[世界史徹底マスター]』西東社、2010年。
目次
古代ローマ史をわかりやすく!
世界史を自然に頭に入れるためのコツ
古代ローマ史の具体的な説明に入る前に、世界史の覚え方のコツについて1つ注意点を挙げておきます。
それは、「いきなり全て覚えようとせず、分野別に少しずつ覚える」ということです。
暗記項目が多い試験の直前になると、一夜漬けで乗り切ろうとする人がいますが、一晩で覚えられる内容なんてたかが知れています。
一気に全部覚えようとするよりは、分野ごとに覚える内容を分けて、少しずつ覚えていく方が効果的です。
この記事の内容も、いきなり全部覚えるのではなく、セクションごとに(例えば、「イタリア半島の統一」と「ポエニ戦争」を分けて)覚えるようにしましょう。
面倒だと感じるかもしれませんが、地道に1つずつ覚えるのが結局一番の近道になるのです。急がば回れ、ということですね。
古代ローマ史①:ラテン人国家建設と共和制
共和制ローマの成立
時は紀元前6世紀のイタリア。先住民族エトルリア人が暮らす王政国家ローマに、突如としてラテン人がやってきます。
ローマに侵入したラテン人は、エトルリア人の王を追放して共和制国家を建設しました。
共和制と言っても、ローマにおける最初の共和制は貴族(パトリキ)しか参加できない限定的な制度でした。
初めは共和制の政治から追放されていた平民(プレブス)ですが、重装歩兵として戦争に参加して徐々に力をつけた結果、「平民会」という組織を設けて戦争に参加することが許されるようになりました。
平民会からは、貴族たちが参加する別の議会組織「元老院」の決議に異議を唱えられる「護民官」という役人が選出されていました。
貴族が強い力を持ちながらも、平民にも発言権があるようになっていたわけですね。
共和制ローマの政治体制
ローマの政治は、その後徐々に平民へ開かれていくことになります。
平民会・護民官が設置されたのが紀元前500年頃で、紀元前450年頃には、貴族にのみ明かされていた法律を誰でも閲覧できるようにした「十二表法」が発表されました。
紀元前367年には、元老院のコンスル(最高執務官)2名のうち1名は平民から選出する「リキニウスーセクスティウス法」が施行され、
紀元前287年には、平民会の決議が元老院の許可なしに法律として認められる「ホルテンシウス法」が成立しました。
貴族から平民へ。ローマ共和制の政治を覚えるときは、この民主化への流れを押さえておくといいでしょう。
古代ローマ史②:イタリア半島の統一
紀元前3世紀後半(紀元前250年〜)になると、ローマはついにイタリア半島全域を支配下に収めるようになりました。
イタリアを手中に入れたローマは、征服した都市を
- 参政権のある完全な市民権を与える都市
- 参政権のない不完全な市民権のみを与える都市
に分けて統治しました。この統治方法を「分割統治」と言います。
征服された都市は、完全な市民権を獲得すべくローマに従順になり、ローマは徐々に強大になっていきました。
分割統治は、市民を自然に従順にさせるのに最適な仕組みだったわけですね。
古代ローマ史③:ポエニ戦争
イタリアを征服した後、ローマは地中海を越えて北アフリカのカルタゴという都市に攻め入りました。
カルタゴがローマの支配を頑なに拒んだため、ローマとカルタゴとの間で3度の戦争が勃発しました。この戦争を「ポエニ戦争」と言います。
第一次ポエニ戦争では、ローマ側が勝利してシチリア半島を属州にしました。
第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルがアルプス山脈を越えてローマに攻め入りましたが、最終的にカルタゴの南にあるザマで、ローマの将軍スキピオに敗れてしまいます。
2回連続で戦争に勝利したローマは、最後の第三次ポエニ戦争でもカルタゴに勝利し、カルタゴは完全に滅ぼされてしまいまいた。
このポエニ戦争を契機としてローマは勢力をさらに強め、ギリシア・マケドニアなど地中海の勢力の大半を支配するようになっていきます……。
古代ローマ史④:ラティフンディア・グラックス兄弟の改革
十二表法、リキニウス・セクスティウス法、ホルテンシウス法の制定によって貴族(パトリキ)に近い力をつけていた平民(プレブス)ですが、度重なる戦争への徴兵によって徐々に力が弱くなっていきました。
加えて、ポエニ戦争後に貴族がラティフンディア(大土地経営)を始めたことで、平民の土地は貴族に買収され、平民はどんどん没落していきました。
しかし政治家の中にも、この平民の没落を憂う人がいました。グラックス兄弟です。
グラックス兄弟は、貴族によるラティフンディアを制限し、平民に土地を与え自作農を養成する施策を試みました。
結果としてグラックス兄弟の改革は失敗に終わりましたが、彼らの功績は2000年後の現在も語り継がれています。政治家たるもの、かくあるべしですね。
古代ローマ史⑤:内乱の1世紀と三頭政治
紀元前1世紀に入ると、ローマの強大な支配に対して反乱(スパルタクスの乱など)が多発するようになりました。今日の世界史で「内乱の1世紀」と呼ばれる時代の到来です。
混乱する時代が続く紀元前60年、当時力を持っていた軍人・政治家であるポンペイウス、クラッスス、カエサルの3人が共同で政権を握ります。
この共同政権は後に「第1回三頭政治」と呼ばれるようになりますが、クラッススが亡くなった後ポンペイウスとカエサルが対立してしまったため、短期間で解消されてしまいました。
ポンペイウスとカエサルが亡くなった後の紀元前43年、今度はカエサルの養子であるオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスの3人で「第二回三頭政治」が行われました。
しかしアントニウスはエジプトのクレオパトラと結婚してローマを裏切り、最終的にオクタヴィアヌスによって殺されてしまい、第二回三頭政治も終わりを迎えます。
ローマの政治家は血気盛んで、協働して政治を営むのが苦手だったみたいですね。
古代ローマ史⑥:パックス=ロマーナと五賢帝
エジプトのクレオパトラを破り、北アフリカ全体を支配下に入れたオクタヴィアヌスは、元老院からアウグストゥス(尊厳者)という称号を与えられ、独裁者となりました。ここから、ローマは帝政へと移っていきます。
帝政になったローマは、紀元1世紀から2世紀頃に最盛期を迎えます。
この時代のローマを「パックス=ロマーナ」(ローマの栄光)と呼び、パックス=ロマーナ時代に生きた5人の皇帝を「五賢帝」と言います。
五賢帝と呼ばれている皇帝は、以下の5人です。
- ネルヴァ
- トラヤヌス
- ハドリアヌス
- アントニヌス
- マルクス・アウレリウス・アントニヌス
五賢帝はローマ史でも再頻出なので、しっかり押さえておきましょう!
古代ローマ史⑦:ローマの分裂
栄華を極めた帝政ローマですが、紀元3世紀に入るとその勢力に陰りが見え始めます。
212年に即位したカラカラ帝は、ローマの全市民に市民権を与えましたが、重税のせいで市民の生活は苦しくなってしまいました。
その後即位したディオクレティアヌス帝は、国の安定を図るために専制君主制(ドミナートゥス)を導入し、国土を四分割して軍事力を強化しました。
その後即位したコンスタンティヌス帝やテオドシウス帝も、異端とされていたキリスト教を公認して国教に据えるなど、内乱を鎮める策を講じ続けましたが、結局内乱は収束せず、395年、遂にローマは東西に分裂してしまいます。
まさに、
「奢れるものも久しからず、ただ春の世の夢のごとし。猛きものも遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」(平家物語)
ですね。
おわりに:古代ローマ史のまとめ
いかがでしたか?
この記事では、古代ローマ史の大きな流れをわかりやすく解説してきました。
最後に、改めて古代ローマ史の流れをまとめておきましょう。
- ローマにラテン人が侵入し、共和制を確立する。
- イタリア半島を支配する。
- ポエニ戦争に勝利し、地中海を支配する。
- 内乱の1世紀を経て、三頭政治が行われる。
- 「パックス=ロマーナ」と呼ばれる時代を迎える。
- 徐々に衰退し、東西に分裂する。
古代ローマは戦争の名前や支配者の名前がたくさん登場しますが、この大きな流れを踏まえて、細かい部分を覚えてみてくださいね。
それでは!!