【3分でわかる世界史】パレスチナ問題をわかりやすく解説

はじめに

パレスチナ問題は現代社会における最も深刻な対立の一つです。

民族、宗教、政治、戦争などさまざまな対立軸があるため、非常に複雑な構造となっています。

今回の記事では、パレスチナ問題を時系列に沿って発端から現代まで詳しく解説していきます。

記事の最後には関連入試問題を付録として掲載しています!記事内容の確認にぜひ使ってくださいね。

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2024.06.30

パレスチナ問題を概観する

まずは4つの項目でパレスチナ問題をざっくりと捉えてみましょう。

場所:パレスチナ地方(東地中海海岸)

期間:20世紀初頭~現在

対立軸:イスラエル(ユダヤ人)-パレスチナ人(アラブ系)

理由:ユダヤ人によるイスラエル建国

ここがポイント!

そもそも、パレスチナとは東地中海沿岸の地域一帯のことです。

パレスチナの地に新たに国家を建設したいユダヤ人と、パレスチナに以前から居住し大戦後の独立を約束されていたアラブ人との対立が主軸となっています。

宗教対立、民族対立、冷戦期の米ソ対立、冷戦後の大国アメリカの介入などが絡み合ったことにより、現在でも解決は困難を極めます。

時系列で見るパレスチナ問題

19世紀末~第一次大戦前期

この時期に起こったいくつかの出来事をきっかけに「シオニズム」の気運が高まったことで、パレスチナがユダヤ人にとっての「故郷」とみなされるようになっていきます。

「シオニズム」とは、ユダヤ人たちが自分たちにとっての「故郷」、前1000年頃、ヘブライ人(ユダヤ人)がヘブライ王国を建てた地であるパレスチナに帰り国家を再建しようという考えのことです。

ロシアでのユダヤ人迫害(ポグロム)、フランスでのユダヤ系軍人への冤罪事件(ドレフュス事件)に対する反省から、ユダヤ人人権意識に対する国際気運が高まったことで広がっていきました。
 

第一次世界大戦期

第一次大戦期にはイギリスのいわゆる「三枚舌外交」によって、パレスチナを巡る抗争が本格化します。

1915年、イギリスはアラブ人との間にフサイン-マクマホン協定を締結しました。

アラブ民族運動を利用し、アラブ地域の独立を約束する内容です。

続く1916年、サイクス-ピコ協定によって、イギリスはオスマン帝国の領土分割をフランス・ロシアと約束しました。

このとき、パレスチナは英・仏・露のいずれかが領有するのではなく、国際管理地域とすることが決定されたのです。

そして1917年、ユダヤ人に対してバルフォア宣言が出されます。

シオニズムを利用し、パレスチナにユダヤ人の「民族居住地 national home」の設定を約束しました。

これらの協定・宣言には、それぞれ内容に曖昧な部分があり、矛盾しているとも、矛盾していないとも捉えられるように作られていました。

このため、対立の一因になったと言えるでしょう。

戦間期

第一次大戦後のオスマン帝国の崩壊で、パレスチナがイギリスの手に渡ることになりました。

イギリスはパレスチナの委任統治を開始し、ユダヤ人の入植を実施しました。

これによって急激に移住が進んだユダヤ人と、現地に住んでいたアラブ人の間での対立が始まりました。

大戦後

第二次大戦中のナチスによるホロコーストを受け、再び「シオニズム」が興隆します。

イギリスのアトリー内閣はパレスチナの委任統治期間が終了したのを機に、国際連合へユダヤ人とアラブ人との問題解決を委託をしました。

そこで、国連は1947年にパレスチナ分割案を決議します。

その内容は、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家とに分割するものでした。

ユダヤ人側は決議をおおむね受け入れた一方で、人口的多数のアラブ人にとっては不利であったため、アラブ人の側はこれを拒否。

決議案こそ可決したものの、国連は紛争の解決に事実上失敗しました。

1948年、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が勃発します。

前述の決議案に基づきユダヤ人がイスラエルの建国を一方的に宣言したところ、それにアラブ人が反発し、発生しました。

この戦争の主な対立軸は、アラブ諸国(エジプトなど) ー イスラエル+米 です。

結果はイスラエルの勝利

決議案と戦争によるパレスチナの分割によって、パレスチナに居住していたアラブ人70万人以上が難民化してしまいました。

パレスチナ領土の推移

引用:パレスチナ子どものキャンペーン

冷戦期

1964年、アラブ側がPLO(パレスチナ解放機構)を設立します。

そして1967年、PLOの設立を警戒したイスラエルがパレスチナの領土を奇襲したことで第三次中東戦争が発生しました。

わずか6日のうちに、イスラエルはシナイ半島・ヨルダン川西岸・ガザ地区などを占領、つまりアラブ人側は領土を大きく失う結果となりました。

また、この戦争を機にアメリカとイスラエルの関係が強化されます。

さらに1973年、第三次中東戦争で占領された領土を奪還するため、アラブ側のエジプト・シリア軍がイスラエルを奇襲攻撃したことで第四次中東戦争が発生。

アラブ人側に有利な休戦協定をイスラエルとの間に結ぶことに成功しましたが、依然としてガザ地区やヨルダン川西岸にはイスラエル人の入植が進みました。

中東戦争後

1980年代後半から、パレスチナではイスラエル人の支配に対抗するアラブ人側のインティファーダ(民衆蜂起)が激化しました。

女性や子供も含む民衆が武器を持たずに石を持って立ち上がり、パレスチナ自治を求めたのです。

こうした動きも影響し、アメリカのクリントン大統領の仲介の下、PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相との間で1993年にパレスチナ暫定自治協定が締結されました。

ここではヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ人による「暫定自治」の開始が約束されました。

しかし1995年、そのラビン首相が暗殺されます。

しかも、暗殺したのはアラブ人の側ではなく、ユダヤ教急進派だったのです。

これにより、協定締結で一度は高まった和平の機運が一気に低下し、再び激しい対立となってしまいました。

2005年にはPLOのアッバス議長とイスラエルのシャロン首相の間で停戦宣言が出され、イスラエルはガザ地区から撤退を開始しました。

しかし、2008年、イスラエルは再びガザを侵攻しました。

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【世界史履修者へ】教科書一冊でここまでできる! 教科書完全活用法

2020.10.08

入試問題で確認!

この記事で学んだことが身についているか、問題を解いて確認してみましょう!

センター試験・世界史B・2011年度第3問(改題)

問題

ユダヤ教徒やユダヤ系の人々について述べた文として正しいものを一つ選べ。
① 『新約聖書』は、ユダヤ教徒にとって聖典である。
② イスラエルは、建国と同時にアラブ諸国の承認を受けた。
③ 第一次世界大戦中に、ドイツでは、ユダヤ系住民が強制収容所へ送られた。
④ ドレフュス事件は、ユダヤ系軍人に対する冤罪事件である。

解答・解説

正解:④
①は『新約聖書』→『旧約聖書』、②は「承認を受けた」→「反発を受けた」、③は「第一次世界大戦」→「第二次世界大戦」とすることで正文となります。

早稲田大学・文化構想学部・2015年度第Ⅶ問(改題)

問題

(1)ユダヤ人の間のパレスチナへの移住とそこでの建国を目指す運動を何というか。【語句記述】

(2)イギリスは、第一次世界大戦勃発後、アラブ人に独立を約束する一方で、ユダヤ人に対してはパレスチナにおける「民族的郷土」の建設を支持し、フランス・[ X ]とはオスマン帝国領を分割する密約を結んでいた。この空欄[ X ]に当てはまる国名は何か。

(3)次の文のうち、誤っているものを一つ選べ。
ア パレスチナ解放機構(PLO)は、イスラエルとパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)を結んだ。
イ エジプトのサダト大統領は、イスラエルとの平和条約に調印した。
ウ イスラエル占領下のアラブ人は、インティファーダと呼ばれる抵抗運動を行った。
エ 第3次中東戦争中、アラブ石油輸出機構(OAPEC)は、石油戦略を発動した。

解答・解説

正解:(1)シオニズム (2)ロシア (3)エ
(3)はエの「第3次中東戦争」→「第4次中東戦争」とすることで正文になります。

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【共通テスト世界史】本番9割超えの現役大学生が教える!共通テスト世界史の勉強法

2022.10.06

おわりに

パレスチナ問題は対立軸や出来事が多く、整理して理解するのが非常に難しいテーマです。

まずは時系列に沿って、重要な出来事を転換点として暗記するのがよいでしょう。

5W1Hを意識しながら勉強すると覚えやすいですよ!




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