はじめに
古代中国史は、長い中国史の大事な基盤となる部分なので、早めに理解する必要があります。
しかし、複数の王朝が乱立していることが多く、難しいですよね。
今回は、中国史を勉強する上で大事な4つのポイントと黄河文明から秦までの古代中国史の流れをわかりやすく解説します!
目次
古代中国史でおさえておくべき4つのポイント
【古代中国史のポイント】①王朝の成立順と大まかな時期を覚える
古代中国史では、王朝の成立順と大まかな時期を覚えることがポイントです。
王朝の流れを掴んだ上で重要な出来事を覚えていくことで、因果関係が理解しやすくなります。
また、他の地域で同時期に起こった出来事を考える際に、王朝の成立時期がわかっていると理解しやすいので、まず最初に王朝の成立順と大まかな時期を覚えましょう。
ちなみに筆者は、童謡の「うさぎとかめ」のリズムで歌って覚えていました。動画サイトに王朝の順番が覚えられる替え歌があるので、自分が覚えやすいものを探してみてくださいね。
【古代中国史のポイント】②地理的要因は王朝の鍵を握る
古代中国史を勉強する時は、王朝の中心となる都市の位置と国同士の位置関係を地図で確認しましょう。
中国は王朝ごとに中心都市が移り変わっていました。
大河川の豊かな物流が都市の繁栄の条件となるため、中心都市の多くは大河川の近くに位置しています。
また、春秋時代・戦国時代のように国が乱立している時代は、国同士の位置関係が重要です。
国同士の争いの原因や王朝特有の文化の発生理由は地形に関係していることが多いですよ。
【古代中国史のポイント】③文化の変化には必ず意味がある
古代中国史の文化を勉強するときには、単語を覚えるのと同時に、文化の変化に着目するのがポイントです。
例えば、打製石器から磨製石器への変化からは、自然石の先を磨いて刃を付けたことでさまざまな作業の効率が上がったことが読み取れます。これが、猿人から新人にかけて、人類の進化を表す文化の変化です。
打製石器、磨製石器という単語だけを覚えるのではなく、文化が変化した背景とセットで理解しておくと、歴史の流れが掴みやすくなりますよ。
古代中国史の文化についても、このように単語と背景とセットで理解するようにしましょう。
古代中国史をわかりやすく解説!
黄河文明(紀元前5000年~)
中国で確認されている最古の文明は黄河文明です。
黄河文明は前半と後半で発生場所と土器の特徴が異なります。
黄河文明の前半は黄河の中流域、仰韶という地域を中心に栄えたため、この前半の文化を仰韶文化といいます。
仰韶文化が発生した地域では、素焼きの彩文土器である彩陶が発掘されました。
後半は黄河下流域の竜山という地域で文明が発展します。そのため、後半に発達した文化は竜山文化と呼ばれます。
竜山文化の地域では、黒陶という黒色の磨研土器が発掘されました。
彩陶は手でこねて作られていましたが、黒陶はろくろを使って形を作り、高い火力で焼き上げていたそうです。ろくろの利用や火力の増加に、技術の向上が表れていますね。
殷(紀元前16世紀~)
仰韶文化や竜山文化に続いてさまざまな文明が発生し、やがて邑という都市国家がいくつか生まれました。
その中の1つで、商という有力な邑を盟主として作られた邑制国家が殷です。
殷墟と呼ばれる遺跡が発見されたため、殷は現在確認できる中で中国最古の王朝とされています。
殷では、王が神意を占って政治を行う神権政治が行われていました。
さらに、占いに用いられた甲骨文字や、王の権威の象徴の青銅器が発見されています。
周(西周)(紀元前11世紀~)
周は、渭水のほとりにある鎬京を中心に成立していた国です。
紀元前11世紀には殷を滅ぼして領土を拡大し、華北地域を支配します。
周では封建制度という特徴的な制度が採用されていました。
国の領土を封土として、諸侯などに経営を任せ、諸侯は王に対して、卿・太夫・士といった家来は諸侯に対して貢納と軍事の義務を負います。
封建制度とは、このような主従関係に基づく制度で、血縁秩序(宗法)に基づいた地方分権でした。
しかし、紀元前770年になると、異民族の犬戎の侵入によって首都鎬京が陥落してしまいました。
ここで一度、黄河文明から西周までを地図で確認しましょう。
仰韶文化・竜山文化が発生した場所と黄河の位置関係を確認してください。
また、殷と周も河川のそばに成立していますね。
周(東周)(紀元前770年~)
異民族の侵入によって周王は鎬京を追われ、洛邑(現在の洛陽)へ遷都しました。
鎬京に成立していた周と、洛邑に遷都した後の周を区別するために、前者を西周、後者を東周と呼びます。
さらに東周の時代は、春秋時代と戦国時代の2つの時代に分割することが多いです。
春秋時代・戦国時代の乱世は、政治や社会のあり方をめぐる多くの思想を呼び起こし、諸子百家登場のきっかけとなりました。
今回は特に大事な4つの学派について表にまとめたので、少しずつ覚えていきましょう。
春秋時代(紀元前770年~)
周の地方分権により諸侯がそれぞれ力を強め、斉・晋・楚・越・呉の5つが特に力を持つようになりました。
このような強力な諸侯を覇者といい、特にこの5つは春秋の五覇と呼ばれます。
春秋時代では周王の力はほぼ残っておらず、権威だけが保たれている状況でした。この状況を
「尊王攘夷」という言葉で表します。
また春秋時代には鉄が普及し、鉄製農具が牛貢納法とともに華北に広がったほか、鉄器を用いた治水や灌漑の事業が行われ、生産力の向上に繋がりました。
戦国時代(紀元前403年~)
戦国時代は、春秋の五覇であった晋が、韓・魏・趙の3国に分裂した後の時代を指します。
晋が分裂し、燕・斉・楚・秦・韓・魏・趙の7つの大国が乱立しました。この7国は、戦国の七雄と呼ばれます。
周王の権威が保たれていた春秋時代とは違い、それぞれの国で王を名乗る者がいました。
また、商工業が発展して青銅貨幣が登場した時代でもあります。
ここで、地図で戦国の七雄の位置関係を把握しておきましょう。秦はかなり大きく、多くの国を攻めやすい位置にありますね。
秦(紀元前221年~)
秦は戦国時代に国力を一番伸ばし、始皇帝と呼ばれる人が他の戦国の七雄を滅ぼして中国を統一しました。
行政長官が法家の李斯だったとき、儒学者を穴埋めにする坑儒と書物を焼く焚書を行いました。
このような思想統制の他、貨幣や度量衡、文字の統一も行われました。特に半両銭という貨幣が利用されていたことを覚えましょう。
また、秦は郡県制と呼ばれる、中央からの官僚による諸侯の直轄支配を採用していました。
さらに、匈奴という騎馬民族に対抗するために長城を修繕するなど、秦は特に国力増強を重視していたことがうかがえます。
しかし、始皇帝の死後、大きな負担を強いられていた民衆の不満が爆発し、史上初の大きな農民反乱となる陳勝・呉広の乱が起こりました。
なんとか鎮圧するものの秦の力は弱まり、劉邦と項羽の2人が天下を争い、漢の時代に移っていきます。
おわりに
今回の解説はここまでです。いかがでしたか?
前半で説明したポイントを重視して中国史を追っていくと、テストの点数アップにもつながります。
中国史は長くてややこしい部分も多くありますが、整理してコツコツ覚えていきましょう!