世界史解説【東アジア文化圏の形成と発展】宋と北方王朝

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この記事は 2016年09月17日に更新されました。
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こんにちは。合格サプリ編集部の肯定ペンギンです。

今回は宋と北方王朝を扱います。中国史のなかでは比較的おぼえやすい分野ですが、気を抜かずにがんばりましょう。

赤字はセンターレベルなので必ずおぼえましょう。

五代十国期と宋の成立

唐の滅亡後、朱全忠の建てた後梁をさきがけに、華北に五つの短命な王朝が相次いで成立しました。唐の滅亡から宋の統一までの時代を五代十国とよびます。このうち後晋は建国援助の見返りに、契丹に対し燕雲十六州を割譲しました。

五代十国期、軍人による武断政治が続くなかで、貴族層は没落し、かわって形勢戸とよばれる新興地主や大商人が台頭しました

後周の節度使である趙匡胤960年に宋を建国しました。都は開封です。趙匡胤は科挙の最終試験に皇帝が実施する殿試を採用し、文治主義にもとづく皇帝独裁体制の教科を図りました。科挙合格者の多くは形勢戸や大商人で占められ、士大夫層を形成しました。

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宋の外交をめぐる苦悩

軍事力の低下した宋は周辺の異民族王朝と講和条約を結び、平和の維持に努めました。例えば遼とは澶淵の盟を結び、宋が遼に銀や絹を、歳幣として贈りました。他にも、西夏とは慶暦の和約を結びました。

その後、宋は深刻な財政難となりました。皇帝神宗により宰相に登用された王安石は、新法による改革を行いました。(※新法の内容については後でまとめます)

しかし、中小商人・農民を優遇する新法に対し、大地主や大商人を出身とする官僚は反発しました司馬光を中心に旧法党を結成し、新法改革を支持する新法党と対立したため、政治は混乱しました。

1126年、遼を滅ぼしたが開封を占拠し、徽宗らを北方へ連行しました。この出来事を靖康の変とよびます。(※「靖難の役」と間違えないようにしましょう)江南に逃れた高宗は都を臨安に移し、南宋を建てました。

金との対決を主張した主戦派の岳飛に和平派の秦檜が勝利した結果、南宋は金と淮河を境界とし、紹興の和約を結びました。澶淵の盟、慶暦の和約と異なり、紹興の和約は南宋を金の臣下とするため、南宋にとっては屈辱的なものでした。

岳飛は中国で大人気の武将です。ドラマ化もされています。かっこいいですね(n*´ω`*n)
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画像引用:岳飛 – Wikipedia

宋代の北方王朝

西夏
民族系統 モンゴル系契丹族 チベット系タングート族 ツングース系女真族
建国者 耶律阿保機 李元昊 完顔阿骨打
統治形態 契丹人は部族制
漢人は州県制
二重統治体制
中国式 女真人は猛安・謀克
漢人は州県制
二重統治体制
文字 契丹文字 西夏文字 女真文字
滅亡 北宋との挟撃で滅亡
耶律大石が中央アジアに移動し
西遼を建国
モンゴルのチンギス=ハン
の攻撃により滅亡
モンゴルのオゴタイ=ハン
の攻撃により滅亡

宋代の社会・経済

形勢戸や官戸(科挙官僚を輩出した形勢戸)は、多くの佃戸とよばれる小作人を使い、荘園を営みました。とくに長江下流域は新田開発やベトナムから伝来した占城稲の普及により、中国農業の中心になりました。そのため、「蘇湖熟すれば天下足る」といわれました。
また、喫茶の習慣が普及し、景徳鎮が陶磁器生産の中心として発展しました。

唐では都市の商業活動、流通が制限されていました。しかし宋では、国家による都市への商業規制が廃止され、商工業が隆盛しました。都市郊外には交易場として草市が成立し、とよばれる小都市に発展しました。また、商人組合のや、手工業組合のが作られました。貨幣経済も発展し、大量の銅銭のほか、交子会子といた紙幣も作られました。

宋代の文化

士大夫を担い手とする、中国的な文化がさかえました。

北宋の周敦頤が創始し、南宋の朱熹が大成した朱子学が特徴です。朱子学は、以前の潮流に反し、五経よりも四書を評価します大義名分論も特徴です。

歴史では、司馬光が『資治通鑑』を編年体で記し、欧陽脩が『新唐書』を紀伝体で記しました。文学では、楽曲に合わせた歌詞であるが発達したほか、唐宋八大家の一人である蘇軾が活躍しました。

美術では、院体画(宮廷の画院に属する画家が作成、代表:徽宗)や文人画(士大夫が趣味として作成)が作られました。また、青磁白磁などの陶磁器が景徳鎮を中心に作られました。