世界史解説【東アジア文化圏の形成と発展】隋・唐

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この記事は 2016年09月17日に更新されました。
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皆さんこんにちは。合格サプリ編集部の肯定ペンギンです。

今回は隋唐期を扱います。

赤字はセンターレベルなので暗記必須です。

589年、隋の楊堅大興城を都に中国を統一しました。隋は、北魏が始めた土地制度の均田制西魏が始めた氏制度の府兵制を継承したほか、税制度として租庸調制を実施しました。また官吏任用制度については、かつての九品中正から科挙にもとづくよう改めました。貴族の官職独占を防ぐためです。
(ただし、結果的には大土地所有者である貴族の優勢は変わりませんでした)

第二代煬帝は、中国の南北を結ぶ大運河を完成させました。しかし、高句麗への遠征に相次いで失敗するなど、財政難に陥り、反乱で隋は滅びました。

通済渠、永済渠と黄河、長江の位置関係をおさえましょう。
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画像引用:大運河(だいうんが)とは – コトバンク

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唐(前半)

618年、李淵長安を都に唐を建てました。第二代李世民は隋の諸制度を受け継ぎ、律令体制を確立しました。

貞観の治とよばれる彼の治世に、中書省門下省尚書省の三省、このうち尚書省に属する六部(吏部戸部礼部兵部刑部工部)のほか、観察機関の御史台が置かれました。また、律令格式にもとづく法体系が整備されました。

※三省は中央書類を取り扱います。中書省→門下省→尚書省の順に審査されるので、「書類審査を注(中書省)文(門下省)しよう(尚書省)」とおぼえましょう。六部は気合でなんとかしてください。

周辺統治については、都護府が各地におかれ、羈縻政策という諸民族の自治を認める間接統治が採られました。

最大領土を実現した三代高宗の死後、皇后の則天武后を建て、中国史上唯一の女帝となりました。則天武后に加え、中宗の皇后韋后が政権を握った事件は、「武韋の禍」とよばれます。

唐(後半)

唐の諸制度のうち、重税と徴兵を嫌った農民の逃亡から、均田制府兵制が崩れ、荘園が拡大し、軍制は傭兵を採用する募兵制に代わりました。当初募兵は辺境に設けられ、指揮官として節度使がおかれました。

玄宗楊貴妃の一族を重用すると、これに反発した節度使安禄山史思明を中心に安史の乱が起こりました。ウイグルの支援で反乱は鎮圧されたが、反乱後は内地にもおかれた節度使が自立し、地方財政・民政を掌握する藩鎮になりました。

藩鎮の台頭により、租庸調制が機能不全に陥った。税収の減少を補うために、宰相楊炎の進言で、夏秋2回、土地・資産に課税する両税法が実施されました。言い換えると、人頭税中心から土地税中心へと改められたのです。

9世紀後半には農民反乱である黄巣の乱がおこり、混乱と荘園の荒廃により多くの貴族が没落し、藩鎮はいっそう勢力を増しました。907年、反乱鎮圧に活躍した節度使朱全忠により、唐は滅ぼされました。

唐の外交

唐には絹の道を経由してイラン系のソグド人が、海の道を経由してアラブ人商人が来訪し、東西交易がさかえました。これを受けて広州市舶司が設けられ、海上貿易を監督しました。また周辺国の多くは東アジア世界の中心だった唐に貢物をもって朝貢し、唐と君臣関係を結んで(=冊封を受け)、唐との関係を強固にしました。

8世紀の唐の領域と周辺国の名前をおさえましょう。
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画像引用:艶情・社会・政治批判の詩 : 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中 …

唐の文化

大土地所有者である貴族を担い手とした文化です。東西交易の隆盛とともに、文化も国際色を帯びました。

儒学では、訓詁学が発達しました。孔穎達は『五経正義』を記し、科挙のテキストとして用いられました。仏教では、禅宗・浄土宗がさかえ、玄奘義浄がインドに渡りました。そのほか、祆教(ゾロアスター教)、景教(ネストリウス派キリスト教)、マニ教、回教(イスラーム教)などの外来宗教が流入しました。

文学では、漢詩において李白杜甫王維白居易などの詩人が活躍しました。韓愈柳宗元は漢以前の古文の復興を唱えました。(当時は四六駢儷体が流行していました)

美術工芸では、呉道元山水画唐三彩を広め、交易品としても人気でした。