昭和恐慌
1920年代の日本経済は慢性不況の状態が続いていました。
しかし、再三の恐慌に対し、政府は日本銀行による救済融資でしのいだため、膨張した経済界の整理は進みませんでした。
工業の国際競争力不足などのために輸入超過は増大し、1917年以来の金輸出禁止が続く中、為替相場は不安定のままでした。
1929年に成立した立憲民政党の浜口雄幸内閣は、蔵相に井上準之助を起用。
緊縮財政により物価の引き下げをはかり、産業合理化を促進して国際競争力の強化を目指しました。
1930年には金輸出解禁(金解禁)を断行し、為替相場の安定と経済界の整理をはかりましたが、1929年にアメリカ株価暴落から始まった不況が世界恐慌に発展していたことに加え、旧平価で解禁したため、円が切り上げとなり、円高をもたらして輸出が停滞し深刻な恐慌(昭和恐慌)に陥ることとなります。
そのため、正貨は海外に流出し、企業の操業の短縮・倒産が相次ぐとともに、産業合理化による賃金引き下げ・人員整理が行われ、失業者は増大しました。政府は1931年、重要産業統制法を制定し、不況カルテルの結成を容認しました。
米価は1920年代から植民地の移入米で低迷していましたが、昭和恐慌が発生すると、米をはじめ農産物の価格が暴落しました。
恐慌により消費が縮小したアメリカへの生糸の輸出は激減し、その影響で原料である繭の価格は大きく下落。
1931年には、東北・北海道で大凶作に見舞われ、兼業の機会を失ったうえに都市の失業者が帰農したため、農家の困窮は著しく、娘の身売りや欠食児童が続出するなど、深刻な農業恐慌が起こりました。
協調外交の挫折
浜口雄幸内閣では、幣原喜重郎外相が協調外交の方針を復活させ、1930年には日中関税協定を結び、条件付きで中国の関税自主権を認めました。
一方、1930年には若槻礼次郎を全権として派遣し、ロンドン海軍軍縮会議に参加。
会議では補助艦の保有比率が取り決められ、日本は米英に対して約7割の保有比率で条約に調印しました。
これに対し、野党の立憲政友会や海軍軍令部・右翼などは、海軍軍令部の反対を押し切って政府が条約に調印したのは統帥権の干犯であると、内閣を攻撃。
政府は枢密院に同意させて条約のの批准に成功したが、浜口雄幸首相は右翼の青年に狙撃され、重傷を負って退陣することとなりました。