大学の研究内容を高校生にもわかりやすく!〜哲学は何を学ぶ?〜

はじめに:大学の哲学コースって何を学ぶの?

みなさん、哲学って大学でどのように研究するかご存知ですか?

最近はテレビやネットで「哲学的な〇〇」とか「哲学者が語る〇〇」とかいう言葉を聞く機会が増えてきましたが、哲学の研究の実態ってあまり知られていませんよね。

そこでこの記事では、大学で哲学を研究している筆者が、哲学の研究内容について紹介します!

哲学に触れた経験がない人でもわかりやすいように、極力専門用語を使わずに説明するので、安心して読み進めてくださいね。

大学の哲学コースで学ぶこと

哲学と一口に言っても、その研究内容は様々です。

単純に「哲学」と言えば普通「西洋哲学」(フランス・ドイツ・イギリス・アメリカ・イタリア・ロシア・スペインなど)を指しますが、「インド哲学」や「日本哲学」といった別種の哲学もあります。

地域だけでなく、時代で哲学の研究内容を分類する場合もあります。例えば、「古代ギリシア哲学」とか、「中世フランス哲学」とか。

さらに、内容に応じて研究内容が分類されることもあります。内容に応じて分類する場合、「認識論」・「倫理学」・「美学」などとなりますね。

地域・時代・内容の3つが、哲学の研究内容を分類する基準になります。

地域・時代・内容の基準に従って私の研究内容を表記すると、

  • 地域:フランス
  • 時代:20世紀
  • 内容:存在論

になります。

「20世紀フランスの存在論」という言葉を聞いたとき、多くの人は「存在論って何ぞや?」と疑問に思うことでしょう。

そこで以下では、存在論の概要について説明していきます!

大学の哲学コースで学ぶ内容:存在論とは何か

存在論の問い方

存在論とは、文字通り「存在」を問う議論です。

「問う」とは「言語を使って問う」わけですから、問いの構造は言語の構造に依存します。

言語を使った問いは必ず「5W1H」のいずれかに分類されるので、存在についての問いは以下の6種類に分けられます。

  • が存在するのか?
  • が存在するのか?
  • いつ存在するのか?
  • どこで存在するのか?
  • どのように存在するのか?
  • なぜ存在するのか?

一番下の「なぜ」は、哲学よりはむしろ宗教学で問われることが多い(キリスト教なら、私たちの存在理由を神に求める)ので、ここでは除外しましょう。

残り5つのうち、上の2つ(何が・誰が)が存在する「もの」についての問いであるのに対して、3つ目から5つ目まで(いつ・どこで・どのように)は、存在する「こと」についての問いになっていますね。

私たち一人一人(=存在する「もの」)が存在するためには、存在するという「こと」(事態)が達成されなければなりません。

ゆえに、

  • 「何が存在するのか?」
  • 「誰が存在するのか?」

という(存在する「もの」に関する)問いは、

  • 「いつ存在するのか?」
  • 「どこで存在するのか?」
  • 「どのように存在するのか?」

という(存在する「こと」に関する)問いを基盤として成立しているのです。

要するに、存在する「こと」に関する問いの方が、存在する「もの」に関する問いよりも根源的だという話ですね。

では、存在はいつ・どこで・どのように存在しているのでしょうか。そして、存在とは何(もしくは誰)なのでしょうか。

一つずつ問いを掘り下げながら考えていきましょう。

存在する「もの」と存在する「こと」への問い

存在する「こと」に関する問いの方が、存在する「もの」に関する問いよりも根源的なら、先に問うべきは存在する「こと」に関する問いになりそうですよね。

しかし、いきなり存在する「こと」自体を問おうとすると、越え難い壁にぶち当たってしまいます。

私たちが「存在」という言葉を使うとき、必ず存在する「もの」が前提になっています。存在する「もの」なしに存在を議論することは不可能なのです。

存在する「もの」なしに存在する「こと」を問うのは不可能なので、私たちは一旦存在する「もの」への問いを経由して、存在する「こと」を問う必要があります。

私たちの存在への問いは、具体的には以下のようなプロセスをたどります。

  1. 「これだけは確実に存在している!」と言えそうな存在する「もの」を見つける。
  2. ①で見つけた存在する「もの」が、いつ・どこで・どのように存在しているか検討する。
  3. ①で見つけた存在する「もの」が存在するという「こと」(事態)に、論理的な説明が付けられればOK。論理的な説明が付けられなければ、①に戻って確実に存在しそうなものを見つけ直す。

存在論をめぐる哲学の議論は、概ね①〜③を行ったり来たりしながら進展してきました。

存在論の全てを説明するのは大変なので、ここでは近世フランスの哲学者・デカルトを例に、存在論の営みを紹介していきます!

大学の哲学コースで学ぶ内容:デカルトの存在論

我思うゆえに我あり

デカルトは、「これだけは確実に存在している!」と言えそうな存在を、「疑っている<私>(精神的存在としての自我)」に設定しました。

思考する<私>は、この世のあらゆる存在を疑うことができます。

しかし<私>は、疑っている<私>自身を疑うことはできません(以下の図を参照)。

従って、この世全ての存在を疑う<私>の存在は疑い得ない=<私>は確実に存在している、とデカルトは考えました。「我思うゆえに我あり」というやつですね。

<私>の存在論と「神」の存在論

デカルトの<私>の存在論は、一見して確からしいように見えます。しかしデカルトの洞察は「我思うゆえに我あり」で終わりませんでした。

<私>は不完全な存在です。思考する精神である<私>が完全な存在ならば、<私>はこの世の全てを知っていなければなりませんが、実際には<私>は全知ではないからです。

<私>は不完全な存在であるにもかかわらず、<私>は「<私>が存在する」という完全なる真理を有して存在している。

不完全な存在からは不完全な真理しか生まれないはずです。となると、「<私>が存在する」という真理は、<私>ではない「完全な」存在から与えられたものでなければなりません。

<私>に完全な真理を与える完全な存在を、デカルトは「神」と呼びました。

<私>としての人間は確実に存在する。<私>が確実に存在するためには、完全な存在である「神」が存在しなければならない(よって「神」も存在する)。

デカルトの「我思うゆえに我あり」は、<私>の存在を確証する主張であると同時に、「神」の存在を確証する主張でもあったわけです。

ただ、デカルトの「神」の規定はかなり危ういものになっています。

デカルトの主張を悪意を持って言い換えると、「<私>の存在を保証してくれるよく分からない何か完全なものを『神』と呼んでいるだけ」になってしまうからです。

よく分からないものに立脚した存在論は、果たして正しい存在論と言えるでしょうか。

このような疑問を抱えた哲学者たち(ヒューム、カント、ハイデガーなど)が、新たな存在論を打ち立てていくことになるのですが、それはまた別の話……。

おわりに:大学の哲学コースで学べることのまとめ

いかがでしたか?

この記事では、大学の哲学コースで学ぶ内容を簡単に分類したあと、私の専門である存在論についてデカルトを例に説明しました。

この記事で紹介した存在論は、現在認められている存在論のほんの一部に過ぎません。

存在論に興味がある方は、ぜひ以下に挙げる哲学書を読みながら考えを深めていってくださいね。

それでは!

  • デカルト著:谷川多佳子訳『方法序説』岩波書店、1997年。
  • スピノザ著:工藤喜作・斉藤博訳『エティカ』中央公論新社、2007年。
  • ライプニッツ著:岡部英男・谷川多佳子訳『モナドロジー 他二篇』岩波書店、2019年。

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