はじめに
皆さんは飛鳥時代の政治史をしっかり理解し、覚えていますか?
飛鳥時代の政治は内容こそ難しくないものの、同じ人物が2度天皇になったり、権力者交代が多いので苦手な人も多いかもしれません。
飛鳥時代をマスターするポイントは「それぞれの天皇の時に何が起こったのか」をきちんと整理することです。
以下の解説では、入試で問われやすい部分にも言及しているので是非参考にしてください!
飛鳥時代に蘇我氏が権力を持つまでの背景
継体天皇の時代:大伴氏の失脚と物部氏の台頭
512年に任那4県がヤマト政権と友好的な百済に割譲され、513年には五経博士によって儒教がもたらされました。
ここは「仏教」ではなく「儒教」なので注意しましょう!
この頃、大伴氏が権力を持っていましたが、大伴金村は朝鮮半島の統治の失策ですぐに失脚してしまいました。
さらに、527年には新羅と手を組んだ筑紫国造の磐井が磐井の乱を起こしました。
磐井と新羅はそれぞれヤマト政権と対立していて、利害が一致したのです。
この乱を物部麁鹿火が鎮圧したため、大伴氏にかわって物部氏が力を持つようになりました。
欽明天皇の時代:物部氏と蘇我氏の対立の始まり
権力の中心が大伴氏から物部氏へと移り、物部氏は権力を狙う蘇我氏と対立するようになりました。
特に欽明天皇の時代は物部尾輿と蘇我稲目の対立が代表的です。飛鳥時代は誰がどの順番で対立しているのかを理解しておきましょう!
またこの頃、百済の聖(明)王によって仏教がもたらされました。
朝鮮半島では、高句麗が南下したため562年には任那が滅亡し、ヤマト政権は伽耶と結びつきがあったため、朝鮮半島における勢力は衰退していきました。
用明・崇峻天皇の時代:物部氏の失脚〜蘇我氏の権力掌握
物部尾輿と蘇我稲目の対立に代わって、蘇我馬子と物部守屋が対立するようになり、蘇我馬子が勝利したため物部氏は滅亡しました。
さらに崇峻天皇は暗殺され、蘇我氏が権力を完全に掌握しました。
中国では589年に隋が南北朝を統一しました。
飛鳥時代:蘇我氏の滅亡と中央集権国家の始まり
推古天皇の時代:蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)による国家形成
592年に推古天皇(女帝)が即位し、翌年厩戸王(聖徳太子)がその摂政になり飛鳥時代が始まりました。
権力を握っていた蘇我馬子は、厩戸王と手を組んで国家形成を進めました。
603年に冠位十二階を制定し、位階の徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けました。
翌604年には、憲法十七条を制定し、仏教を重んじました。
「天皇記」「国記」の編纂もなされました。
続いて、607年に小野妹子を遣隋使として隋の皇帝煬帝のもとへと派遣しました。
遣唐使ではないので注意しましょう!
答礼使の裴世清が倭国に派遣されたり、翌年高向玄理・南淵請安・旻らが隋に留学したりしましたが、618年に隋は滅亡して倭国との関係が終わりました。
舒明・皇極天皇の時代:中大兄皇子の登場と乙巳の変による蘇我氏の滅亡
中国では618年に隋が滅亡すると、唐が建国されました。
この頃は舒明天皇の時代であり、権力者は蘇我蝦夷でした。
630年には第1回遣唐使の犬上御田鍬が派遣されました。
皇極天皇の時代の権力者は蘇我入鹿であり、山背大兄王(聖徳太子の子)を滅ぼし、更なる権力集中を図っていきました。
しかし、その後蘇我蝦夷と蘇我入鹿は、645年の乙巳の変で蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得た中大兄皇子に滅ぼされることとなってしまいました。
孝徳天皇の時代:中大兄皇子の権力掌握と大化改新
乙巳の変の後、都が難波長柄豊碕宮に遷都され、王族中心の中央集権化政策を目指す孝徳天皇が即位しました。
皇太子は中大兄皇子、左大臣は阿倍内麻呂、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂、内臣は中臣鎌足で、政治顧問である国博士は旻・高向玄理が務めました。
646年に改新の詔が出され、豪族の田荘・部曲を廃止した公地公民制になりました。
また、地方行政組織の「評(こおり)」が各地に設置され、戸籍・計帳も作成されました。
班田収授法も実施されました。
翌年から渟足柵や磐舟柵を設置し、中央集権化のため東北地方の経営にも乗り出しました。
斉明天皇の時代:中大兄皇子の称制と白村江の戦い
次に即位した斉明天皇は、皇極天皇の重祚(一度天皇になった人がもう一度即位すること)でした。
ここは特に入試で狙われやすいポイントで、出題例としては「斉明天皇が以前天皇だった時に発生したことを選べ」などです。
この問題に正解するためには、皇極天皇の時と斉明天皇の時に発生したことを区別しておく必要がありますよね。
朝鮮半島では唐と新羅が結びつき、660年に百済を滅ぼしました。
また、東北地方では阿倍比羅夫が粛慎を倒し、東北地方を支配しつつありました。
斉明天皇の死去後は、中大兄皇子の称制(天皇没後に皇太子などが天皇に即位せず、政務を司ること)で、天皇は一定期間存在しませんでした。
天皇が存在していなかった663年に唐・新羅連合軍が攻めてきて白村江の戦いが発生しました。
百済から救援軍が来ましたが、倭国は破れました。
この敗戦をきっかけに九州の要地である水城・大野城・基肄城・高安城や、対馬〜大和にかけて営まれた古代朝鮮式山城などの国防施設がつくられたり、防人や烽がおかれたりしました。
これらの九州の要地と古代朝鮮式山城はしっかり区別するようにしましょう!
その後朝鮮半島では668年に高句麗が滅亡し、新羅が朝鮮半島を統一しました。
天智天皇の時代:壬申の乱と天武天皇の誕生
近江大津宮に都を移した中大兄皇子は天智天皇として即位しました。
天智天皇は、670年に最初の全国的戸籍である庚午年籍を作成しました。
これは、氏姓を正す根本台帳として永久保存が義務づけられていました。
天智天皇が死去すると、大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の子)が次の天皇の座をかけて争う壬申の乱(672年)が発生しました。
大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位しました。
天武天皇の時代:本格的な中央集権国家づくりの開始
天武天皇は、翌673年に飛鳥浄御原宮で即位しました。
彼は天皇中心の中央集権国家を目指すこととし、684年に八色の姓を定めて新たな身分秩序を作りました。
また、銭貨である富本銭が鋳造されたり、国史の編纂も行われました。
さらに、律令体制の確立を目指して飛鳥浄御原令の編纂も開始しました。
持統天皇の時代:中央集権国家の確立と藤原京の完成
天武天皇の皇后が持統天皇として天武天皇の次に即位し、政策を引き継ぎました。
689年に天武天皇が編纂を開始した飛鳥浄御原令を施行し、翌年に庚寅年籍を作成しました。
694年には天武天皇が造営を開始した藤原京が完成し、遷都しました。
藤原京は大和三山(畝傍山・耳成山・天香具山)に囲まれており、条坊制をもつ「京」が設けられたことと木簡が大量に出土していることが大きな特徴です。
この条坊制は口分田の条里制と区別するようにしましょう!
文武天皇の時代:大宝律令の成立
次の文武天皇は、天武天皇と持統天皇の孫で、後に出てくる聖武天皇の父です。
文武天皇の治世で覚えておくべき事項は、大宝律令が701年に制定され、翌702年に施行されたということです。
難関大志望の人は、特に制定と施行を区別して覚えるのが良いでしょう。
大宝律令は、刑部親王や藤原不比等らによって完成されました。
律令の「律」は今日の刑法にあたり「令」は行政組織の規定などにあたります。
正誤問題で「律」と「令」が入れ替えて出題されることがあるので注意して覚えましょう。
おわりに
日本史で大切なのは、時代ごとにつながりを意識しながらしっかりと出来事を整理することです。
特に今回の飛鳥時代のように人物や覚えることが多い時代では、なおさらつながりを持って理解し、覚えることが重要となります。
何度も繰り返すことを忘れずに徹底していけば必ず自分の武器になる教科なので、根気強く頑張ってください!