金融恐慌と山東出兵

金融恐慌

第一次世界大戦後、欧州の商品がアジア市場で復活したため日本の輸出は減少し、1920年に戦後恐慌が発生。

1923年には関東大震災により銀行手持ちの手形が決済不能になり(震災手形)、政府はモラトリアム支払猶予令)を発令するとともに、震災手形割引損失補償令を公布して銀行の救済をはかりました。

しかし不況は慢性化し、震災手形の発行は難航。

憲政会の第1次若槻礼次郎内閣の時には、片岡直温蔵相の失言により、1927年に取付け騒ぎが起こり金融恐慌が発生しました。

さらに、鈴木商店の経営破綻により、不良債権を抱えた台湾銀行は経営危機におちいります。

若槻内閣は台湾銀行の救済に失敗し、総辞職せざるを得ませんでした。

ついで成立した立憲政友会の田中義一内閣では、3週間のモラトリアムを発令し日銀の救済融資を実施して混乱を沈めました。

普通選挙法成立後の1926年、合法的な無産政党である労働農民党が組織されました。

しかし、党内で共産党系の勢力が強まると、右派の社会民衆党と中間派の日本労農党に分裂・離脱。

田中義一内閣の1928年には第1回普通選挙が実施され、無産政党からも当選者が出ました。

この時、日本共産党の活動が活発化したため、政府は三・一五事件、翌年の四・一六事件で共産党員を大量検挙し、緊急勅令で治安維持法を改正、最高刑を死刑とし、思想を取り締まる特別高等警察特高)を全国に配置しました。

山東出兵

中国では軍閥の割拠状態が続いており、その中で中国国民党は中国共産党と提携し(第1次国共合作)、1926年、中国統一のために国民党の蒋介石が国民革命軍を率いて北伐を開始。

若槻内閣は幣原喜重郎外相のもと協調外交方針をとり、中国内政不干渉の立場であったため立憲政友会や枢密院の反発を受けました。

田中内閣では首相が外相を兼任して外交方針を転換、北伐に対応するために居留民保護を口実に1927年から3度にわたり山東出兵を断行。

2次出兵では国民革命軍と衝突する済南事件が起こりました。

そして東方会議を開き、満州権益を実力で守る方針(「対支政策綱領」)を決定。

しかし、関東軍の謀略により引き起こされた張作霖爆殺事件満州某重大事件)をめぐり天皇の不興を買い、内閣は総辞職することとなりました。

一方、田中内閣は欧米との協調を維持し、1928年には戦争を放棄する不戦条約に調印もしました。




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