【日本史解説】日中戦争から第二次世界大戦へ

どうも、さとぅです。

今回は日本史です。日中戦争から第二次世界大戦までの用語をチェックしていきましょう!

1ページ目は用語チェック、2ページ目は解説・試験で大切なポイントを紹介していきます!

内閣の変遷

岡田啓介内閣にかわった広田弘毅内閣は陸軍の要求を取り入れて成立し、軍部大臣現役武官制を復活させました。

広田内閣は帝国国防方針を改定し軍備拡張を進め、「国策の基準」で南方の進出とソ連の脅威の除去などの方針を定めました。

陸軍穏健派宇垣一成が組閣を試みるも失敗、続いて同じ陸軍の林銑十郎が組閣しましたが短命に終わりました。

変わって貴族院議長の近衛文麿が内閣を組織しました。

対中国

1935年以降、陸軍により華北分離工作が進められていました。

これに対し、中国では抗日の機運が高まり、1936年、張学良が共産党の討伐を重視する国民政府の蒋介石を監禁して内戦停止と抗日を要求する西安事件が起こりました。

これをきっかけに国民政府と共産党の内戦は終結し、1937第二次国共合作が実現し、抗日民族統一戦線が結成されました。

日中戦争へ

1937年に北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍の衝突が起こりました。

不拡大方針をとった近衛内閣でしたが、軍部の圧力により日中戦争へと発展しました。

日中戦争では国民政府の首都南京を占領します。
国民政府は重慶まで引いたものの、英米の支援で抗戦を続けました。

日本は1938年「国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明を発表し、中国との和平の道を閉ざしました。

さらに戦争目的は東亜新秩序の建設にあるとする第二次近衛声明を発表しました。その後、国民政府の要人汪兆銘を重慶から脱出させ、南京に傀儡政権を樹立しました。

第二次世界大戦の勃発

近衛内閣は、1936年、日独防共協定を締結しました。その後1938年の張鼓峰事件、翌年のノモンハン事件とソ連と連戦し、大敗北を喫しました。

一方でドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結び、平沼騏一郎内閣は事態に対応できず総辞職しました。

1939年、ドイツがポーランドにに侵攻して第二次世界大戦が勃発しましたが、阿部信行内閣、続く米内光政内閣は欧州大戦不介入の方針を取り、陸軍強硬派と対立し、総辞職に追い込まれました。

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