【受験応援小説】Start Over(6月9日更新)

第1話:dragging on(後半)

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放課後。廊下を渡っていると、青いジャージで上下を揃えた嘉村真紀と出くわした。

「おうおう。死んだ目をしておりますなあ、遊佐殿」

「真紀ちゃんが元気すぎるんだよ……」
そうかなあ、と真紀は笑う。屈託ないというのはすばらしいことだ。

「ゆさちゃんは今日も図書館かな?」

「ああ、うん、そう……真紀ちゃんは、今日もトレーニング、あるんだ」私は言った。

「みんなにとっての受験勉強みたいなものだからねえ……中間の勉強はしなきゃいけないんだけど」

真紀はスポーツ推薦での大学進学をすでに決めている。
陸上部で、それなりに活躍していた……くらいの事情しか私は知らなかっただけに、聞かされたときには驚いた。

……そしてちょっとだけ、裏切られたような気がした。

毎朝一緒に登校している、ちょっと元気な親友が……という感じ。いつも家畜のように電車で運ばれてくる私とは対照的に、真紀は朝トレのメニューをうんとこなしてから登校してくる、らしい。彼女いわく。

そういう陰ながらの努力が、こうして実を結んでいるわけで。
すばらしいことだ、では済まされないような、言い知れぬ感慨が私のなかにある。

 

「……ああーっ! 中間だよ! 中間試験! 内申点!」

真紀の叫びによって会話へ引き戻される。目の前のジャージ姿の少女はわかりやすく頭を抱えていた。

「部活のメニューやって家帰ったらごはん食べて寝るじゃん。起きる、走る、ガッコ行く、走る、家帰る、寝る……」

真紀は両指をくねくね折りながらまくしたてる。

「ほら! シケンベンキョーする時間がどこにあるっていうんですか?! おかしいよこの世界、ねえゆさちゃん!」

「私に聞かれてもなあ……七宮さんじゃあるまい……」

「……」

「あっ……ごめん」

ああ。またやってしまった。
真紀は七宮さんの話題を嫌うのだ……理由は教えてくれないけれど。

「えっと、その……私は真紀ちゃんほど忙しくないからわからないけど……」

「そんなことねえですぜ! 高校生はみな家畜みたいなもんよ!」

真紀はすぐにいつもの元気さに戻った様子。それでも私はまだ気まずくて返答に詰まってしまう。「……そうだ、眠いときにはコーヒーとか飲むかも。カフェインだよね」

「か、カフェイン?!」真紀はこめかみに縦線が何本か入りそうな表情をした。

「薬物はダメゼッタイって、今朝のプリントにもあったじゃん、ゆさちゃん……」

「薬物じゃないっちゅーの」

いつものように笑い合う。うん、大丈夫だ。私はトレーニングへ向かう真紀を見送り、図書館へと歩を進めた。

*****

真紀に対抗したいわけではないけれど、ここで設定をひとつ追加。こんな私もかつては文芸部の部長の地位におかせてもらっていたことがあった。

とはいえ登録上の部員は私を含め四人しかいなかったし、部室に人が集まることもついぞなく。部活動の名を借りて、私はいつも放課後の図書館にこもって本を読んだり小説を書いたりしていた。
そしていまや名ばかりの文芸部も引退してしまったので、試験週間にも関わらず図書館でだらだらしている番人に私は成り下がっている。

 

静かでホコリのにおいがする空間。窓際の一席に私は座る。私だけの特等席だ。

開けられた窓の外から柔い風が吹きこんでくる。図書館はトラックに面していて、運動部のにぎやかな声がかすかに聞こえる。外は開けた秋の空。澄んだ雰囲気を背中に感じとりながら「部活動」する時間が私は好きだ。

このまま世界が静止したら、音がなくなったら、とさえ思ったりする。

窓の風景を眺めていると、先刻の真紀とのやりとりが頭に浮かんだ。

あの運動部の声には、トラックを駆ける真紀のものも混じっているのだろう。推薦を決め、トレーニングに打ちこむ真紀……

 

――今日も朝トレかあ。元気だねえ

――それしか取り柄がありませんからあ

 

……我に帰る。視野がきゅっと狭くなる感覚におそわれた。

(そうか……七宮さんも、真紀も、才能があって、一心に……)

図書館内を見渡す。
参考書を机に広げている生徒がちらほら。相変わらずしんと静まりかえっている。けれどもなんというか、不意に私を押し出してきそうな圧力が漂っているように感じられて。

ふう、と息を吐く。

(私は……ここにいるべきじゃないのかな)

 

どうしてか自分でもわからないけれど、私は図書館を出ることにした。行き先も決めないまま……足の動くのにまかせて、校舎を後にする。

いや、ほんとうはわかっている。

人気者の七宮さんや運動のできる真紀を思い浮かべて、自分には勉強しかない、と、なんとなくそう思ったのだ。このままではダメだ、なんて。
やりたいことが見つかったわけではないけれど、何も成し遂げていない自分に気づき、ただただ焦燥に駆られて。
七宮さんや真紀のように、自分にも誇れる「初期設定」が欲しいと思って。それは少なくとも、ルーティーンに支配された図書館で得られるものではないと悟って。

居ても立っても居られなくて。

 

ここではない、どこか別の世界に行かなきゃ。

学校の最寄駅を目指しながら、そんなことを考えていると……

 

(……あれは)

十メートル先に、私と同じ制服の女子を見つけた。

見慣れた背中。七宮平乃だ。

……そうか。いつも図書館に最終下校時間まで残っていたから知らなかった。勉強熱心の七宮さんは、この時間帯に下校するのだ。

駅までの道、私は七宮さんの後をつける形になった。教室で人気を集める優等生。私が見たことのある七宮さんの姿はそれだけだ。校舎を出たかの天才には、私のまだ知らないような一面があるんじゃないか。つまらない世界に彩りを与えてくれるかもしれない。

ルーティーンに塗り固められた日々へのやんわりとした嫌気と、それを一挙に壊してくれるかもという淡い期待、加えて七宮平乃へのちょっとした好奇心に、そのときの私は乗せられていた。

 

何かが始まって何かが終わることに対して、希望こそすれ、覚悟なんて少しもできていなかったというのに。

*****

午後四時の駅は時間の静止画だった。まばらな人たちだけが生きていて、人間以外の風景は息絶えて静まりかえっている。
でも、耳をそばたててみると案外いろいろな音が世界にあることがわかる。

ぴーん、ぽーん、と定期的に流れるチャイム。

駅近くを走る車のタイヤが地面を擦る音。

そしてなにより、七宮さんを目で追いつつ歩く私の足音。

それらがふだん私の無意識に入りこんでいるのかと思うと、少しだけ怖いような。

――間もなく、二番線に、電車が参ります。黄色い線の内側で……

そんな私の意識を車内アナウンスが堂々と侵してきた。やばい、急がないと!

私はひたすら七宮さんの背中を追いかけた。幸い乗る電車は私と同じようだった。

改札、ホームまでの階段、電車が来るのを再度知らせるアナウンス、黄色い車両の到着、乗りこむ七宮さんの背中……

 

(……あれ?)

私も七宮さんと同じ車両に乗りこんだはずなのに、肝心の彼女の姿が車内のどこにも見当たらない。

このわずかな間に車両を移動したというのも考えにくいし……ひとまず座席をくまなく探してみよう。どこかに座っているかもしれないし。

昼下がりというのもあって七人掛けの座席にはぽつぽつと空きがある。

学校帰りと思しき制服姿の男子高校生。表情を変えずに右手のスマホを睨んでいる。
年配の女性。電車が動きだすのに合わせてこっくりと舟を漕ぎ、白髪をかすかに揺らしている。

……平和だ。
静かな車内、私が「七宮さん」と口にしてしまえばそんな平和に亀裂が入ってしまう気がして、疑念をぐっと呑みこんで立ち尽くすしかなかった。

ドアーと座席の間の仕切りにもたれかかり、ドアーの窓越しに風景が流れていくのを見る。ビルの尾根はいつしか素朴な住宅街に溶けていく。

……人違い、だったのかな。それとも、幻覚? ……まさか。真紀に「薬物はダメゼッタイですぞ〜」なんてからかわれてしまうこと請け合いだ。見えないものを見たと言い張るのは単なる不審者であって……酒飲みのおじさんじゃあるまいし。

(……忘れよう)

もとより、私は家に帰るつもりだったのだ。
誰に咎められることもない、七宮さんの件はなかったことにしてしまえばいい。私はいつもより早くほんの気まぐれで帰路に着いたんだ。
それが通じる。そうしよう……私は無理やりにでも納得してやった。

ぴろりん、とブレザーの懐から電子音がする。……マナーモードが解けていたことに私は慌てて、スマホをそそくさと取り出す。
音の主は昔使っていた小説投稿サイトからのメールマガジンだった。もう何年も自分の文章をインターネットに放つことなんてしていないけれど、メルマガ配信は解除していないままだ。

最初は真紀あたりからLINEが来たものと思った……いや、彼女はいま健全に部活動中か。
少しずつ、まどろんだ昼下がりから現実へと還ってきているような感覚が私にはあった。

電車はまだ学校最寄りの駅を発ったばかり。
降りる駅まであと六つであることを確認する。しばらくぼんやりと窓の外を眺めていたけれど、そのうち何の気なしに、私はふと背後を振り返った。

車内を振り返った。

振り返ると。

いたはずの乗客が、ひとりもいない。

 

どこにも停まっていないはずなのに……車内は私だけを残して、がらんどうになっていた。

――世界はきっと、いつまでもつまらない。……そう思う間にも、きっとどこかで変化は起こるものだよ

次ページ:第2話(前半)へつづく




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