【3分でわかる世界史】中世イスラーム史の流れをわかりやすく解説!

はじめに:中世イスラーム史をわかりやすく解説!

みなさん、中世イスラーム史は得意ですか?

中世イスラーム史は、覚えるべき内容や人名が多い難しい分野ですよね。

そこでこの記事では、まだ中世イスラーム史が頭に入っていない人のために、中世イスラーム史の流れをわかりやすく説明します!

中世イスラーム史を今から学ぶ人、もうすぐ世界史のテストがある人はぜひ最後まで読んでみてくださいね〜。

まずはこれだけ!中世イスラームの全体的な流れをわかりやすく

まずは中世イスラームという時代の全体的な流れを見ていきましょう。

中世イスラームの時代は、大別して

  1. 成立
  2. 広域支配
  3. 分裂

という3つの時代に分けられます。

7世紀前半にムハンマドが神の啓示を聞いてイスラーム教を発足させ(成立)、

正統カリフ時代・ウマイヤ朝・アッバース朝と時代が下るにつれて、イスラーム教勢力は大きくなっていきました(広域支配)。

しかしアッバース朝からサーマン朝が独立したのを契機にして、イスラーム世界は徐々に分裂し、分裂した諸国家は互いに敵対関係になっていきます(分裂)。

成立時・広域支配時のイスラーム世界の中心拠点はアラビア半島にあったのですが、分裂した後は

  1. アラビア半島
  2. 中央アジア
  3. 西アジア
  4. 北アフリカ
  5. イベリア半島

の5地域にそれぞれ別の国家が建てられました。もちろん、宗教的な中心地はメッカなのですが、政治的な中心地は多地域に分散してしまったというわけです。

中世イスラーム史の流れをわかりやすく

中世イスラーム史は、

  1. 成立
  2. 広域支配
  3. 分裂

という3つの時代に分けられます。この流れを意識しながら、時代を特徴づける重要な史実を追っていきましょう……!

中世イスラーム史の流れ①:イスラーム教の成立

ムハンマド:イスラーム教の勃興

時は6世紀後半。後にイスラーム教の開祖となるムハンマドは、アラビア半島のメッカに生まれました。

商人の息子だったムハンマドは、自らも貿易に従事して何不自由ない生活を過ごしていました。

そんなある日、彼は神の啓示を受けます。そしてその神の言葉を人々に伝える活動を始めます。

メッカでの布教活動はなかなか上手くいかず、ムハンマドは活動拠点をメディナ(メッカの北にある都市)に移動することにします。

メッカとは違って、メディナでは「神の言葉」に従う人々が大勢いました。

そのため、ムハンマドを中心とするイスラーム勢力は瞬く間に力をつけ、メディナからメッカへ、メッカからアラビア半島へ版図を広げていきました。

正統カリフ時代

やがてムハンマドが亡くなると、選挙によってアブー=バクルという人物が後継者に選抜されました。

アブー=バクル以降、第4代までは選挙によって後継者(カリフ)が選ばれました。この時代を、「正統カリフ時代」と呼びます。

正統カリフの時代、イスラーム教の信者たちは異教徒に対して戦争=「聖戦」を行い、ササン朝ペルシャやビザンツ帝国に侵攻していきました。

こうして、新興宗教イスラーム教の勢力は、アラビア半島を中心として国際的にも無視できない存在になっていきます……!

中世イスラーム史の流れ②:イスラーム教勢力の広域支配

ウマイヤ朝

4代目カリフに就任したアリーは、シリアの総督であるムアーウィアと対立し、暗殺されてしまいます。

アリー暗殺後、ムアーウィアはカリフに就任し、シリアのダマスクスを首都とするウマイヤ朝を建国しました。以後、カリフは世襲制になっていきます。

ウマイヤ朝時代も、正統カリフ時代と同じように「聖戦」が行われ、東はインダス川、西はイベリア半島に至るまでの広範な領域を手中に収めました。

現代社会におけるGoogleのように、イスラーム教は成立から短い期間の間に広範な領域を支配することになったわけです。

アッバース朝

ウマイヤ朝は、アラブ人以外のムスリムに税を課していましたが、この措置は「ムスリムは平等であるべきだ」というイスラム教の教えに反くものでした。

ムハンマドの子孫に当たるアブー=アルアッバースは、イスラム教の教えに反するウマイヤ朝に反発し、新たな国家であるアッバース朝を開きました。

アッバース朝は、ムスリム朝時代に非アラブ人に課せられた税を廃止し、ムスリム間の平等を実現します。

アッバース朝は産業を重んじるだけでなく、学芸も振興させたため、首都のバグダードは社会・文化の中心として繁栄しました。8世紀〜9世紀頃のことです。

しかし繁栄したのも束の間、イスラーム世界はその後分裂の一途を辿ることになります……。

中世イスラーム史の流れ③:イスラーム教勢力の分裂

8世紀〜9世紀には栄華を極めていたアッバース朝ですが、9世紀の後半になると徐々に国家が分裂していきます。

中央アジア・西アジア・北アフリカ・イベリア半島にそれぞれ独立したイスラーム国家が建設され、アッバース朝の領土はアラビア半島一帯にまで狭まりました。

というわけで、ここからは中央アジア・西アジア・北アフリカ・イベリア半島におけるイスラーム国家の推移を見ていきましょう。

中央アジア:カラ=ハン・サーマン・ガズナ・ゴール

中央アジアでは、まず北側にカラ=ハン朝、南側にサーマン朝が建国されました。

サーマン朝が建国されたのが875年、カラ=ハン朝が建国されたのが10世紀の半ばと言われています。

その後、サーマン朝から分裂する形で、中央アジアの南側にガズナ朝が建国されました。962年のことです。

ガズナ朝の建国によって、サーマン朝は北のカラ=ハン朝・南のガズナ朝に挟まれる形になり、両国から攻撃を受けた結果、12世紀半ばに滅亡します。

サーマン朝亡き後、カラ=ハン朝は東側(モンゴル高原)から攻め入ってきたカラ=キタイ(西遼)によって滅ぼされます。

残ったガズナ朝も、1186年に新たなイスラーム王朝であるゴール朝によって滅ぼされてしまいました。

カラ=ハン・サーマン・ガズナというイスラーム三国は短期間に滅亡し、ゴール朝だけが中央アジアのイスラーム勢力として残ることになります……。

西アジア:ブワイフ・セルジューク

アラビア半島の西側(西アジア)には、アッバース朝から独立する形でブワイフ朝という王朝が建てられました。932年のことです。

ブワイフ朝は約1世紀に渡って西アジアを支配しましたが、1055年、トゥグリル・ベグという人物が興したセルジューク朝によって滅ぼされてしまいました。

ブワイフ朝に代わって西アジアを支配したセルジューク朝は瞬く間に支配権を広げ、一時は中央アジア・アラビア半島西海岸・小アジアまでを掌握します。

イスラーム教国家であるセルジューク朝の侵攻には、ヨーロッパのキリスト教国家にとって脅威でした。

キリスト教支配権を脅かす異教徒を駆逐するため、のちにドイツ・フランス・イギリスなどの諸国家は十字軍を組織してアジアへ赴くことになります……(詳しくは以下の記事をどうぞ)。

【3分でわかる世界史】中世のヨーロッパ史をわかりやすく解説!

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しかしセルジューク朝の繁栄も長くは続かず、1194年には内部分裂によって衰退し、最終的に中国から来たイル=ハン国に吸収されてしまいました。

アフリカ:ファーティマ・アイユーブ

ブワイフ朝やサーマン朝がアッバース朝から分離独立していた時代、北アフリカでも新たなイスラーム国家が独立を果たしました。ファーティマ朝です。

909年に建国されたファーティマ朝は200年以上もの間エジプトやチュニジアを中心とする北アフリカを支配しました。

その後北アフリカのイスラーム勢力はアイユーブ朝へと引き継がれ、以後オスマン帝国が台頭してくる16世紀まで勢力の独立を維持し続けました。

イベリア半島:後ウマイヤ

アッバース朝はウマイヤ朝に反発する形で建国されたわけですが、当時アッバース朝の建国に反対し、ウマイヤ朝に味方する人たちも少なからずいました。

ウマイヤ朝に味方する人々は、本拠地アラビアからはるか西方のイベリア半島へ赴き、そこに「後ウマイヤ朝」を建国しました。

756年に建国された後ウマイヤ朝は、約250年間独立を維持しましたが、やがて近隣のキリスト教勢力によって駆逐されてしまいます。いわゆる「レコンキスタ」という運動ですね。

おわりに:中世イスラーム史のまとめ

いかがでしたか?

この記事では、中世イスラーム史の流れをわかりやすく解説してきました。

最後に、この記事の内容をまとめた表を掲載しておきます。参考にしてみてくださいね。

中世イスラーム史の流れ

それでは!!

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