世界史解説【東アジア文化圏の形成と発展】魏晋南北朝

こんにちは。合格サプリ編集部の肯定ペンギンです。

今回は魏晋南北朝期を扱います。
赤字はセンターレベルを表します。太字は便宜上文中で強調するために用いたもので、憶える必要はありません。

三国時代

曹操の子である曹丕が後漢を倒し、華北を建国すると、対抗して劉備四川を、孫権江南を建てました。

蜀は魏に滅ぼされ、魏も司馬炎に帝位を奪われて、西晋が建てられる。晋は290年に呉を滅ぼし、三国時代は終わりを迎えました。

晋の混乱と五胡十六国

晋では、帝位をめぐり八王の乱が発生しました。同時期、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)と称される異民族が侵入し、永嘉の乱が発生しました。匈奴の反乱により、晋は316年に滅亡しました。

華北は五胡十六国時代に入ります。漢民族の多くが江南に逃れ、稲作の普及など、江南の開発が進むのがこの時期です。江南には司馬睿が建てた東晋をはじめとし、その後、南朝と称される4王朝(宋・斉、梁、陳)が、建康(現在の南京)を都に興亡しました。建康は、の時代には建業とよばれました。

南北朝時代

華北では、鮮卑拓跋氏北魏を建て、第三代の太武帝439年に華北を統一しました。以後、隋の統一に至るまでを南北朝時代とよび、華北の五王朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)を北朝と総称します。

第六代の孝文帝漢化政策を採り、平城から洛陽へ遷都しました。彼の死後、北魏は東西分裂し、東魏北斉に、西魏北周へ代わり、北周北斉を滅ぼして華北を統一しました。

その後、北周の外戚であった楊堅の建国、南朝のを滅ぼし、589年に中国を統一しました。
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画像引用:魏晋南北朝 – Bing

魏晋南北朝期の諸制度

は、地方に赴いた中正官が人材を評定して推薦する、九品中正を開始しました。大土地所有者の豪族が上級官職を独占し、門閥貴族の形成を招きました。

その後、諸王朝で大土地所有を制限する制度が実施されました。屯田制西晋占田・課田法北魏(孝文帝の時代)の均田制三長制などがこれにあたります。

北魏の創始した均田制と、西魏の創始した府兵制は、隋・唐にも継承されました。

魏晋南北朝期の文化

魏晋南北朝期の江南では、貴族を担い手とする六朝文化がおこりました。

東晋では、詩人の陶潜、画家の顧愷之(代表作:『女史箴図』)、書家の王羲之が活躍しました。では、昭明太子『文選』を編纂しました。この時期、四六駢儷体という華麗な文体が流行しました。また、老荘思想に基づいた哲学論議である清談が流行し、竹林の七賢が活躍しました。

同時期、不安な世相を反映して仏教が広まり、西域僧の仏図澄鳩摩羅什達磨(禅宗の始祖)が来訪しました。東晋の僧法顕は、インドへ往路は、復路はをたどって赴き、『仏国記』を記しました。仏教の大規模な石窟寺院が、敦煌雲崗(平城に近い)、竜門(洛陽に近い)などに造られました。また、北魏寇謙之は、道教を大成しました。彼は、北魏の太武帝によって保護されました。
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画像引用:女史箴図

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