はじめに
律令制度の成立は古代日本史の中でキーポイントの一つです。
律令制度という用語は知っていても結局律令制度とは何なのか説明するのは難しいのではないでしょうか。
古代日本史では、様々な制度が次々と出てくるため混同しやすいという難しさもありますよね。
今回の記事では、そんなややこしい律令制度をわかりやすく解説します!
目次
律令制度とは
そもそも律令制度とは何なのでしょうか。
律令制度とは、律令と格式という法令によって国家を運営する体制のことです。
律は刑法、令は行政組織、租税、労役などの諸規定、格は追加法令、式は施行細則を意味します。
そんな律令制度に基づく国家を律令国家と呼びます。
日本では大化の改新を機に律令の編纂が進み、701年の大宝律令の完成により律令国家が成立、9世紀頃までつづきました。
唐の制度に倣ったもので、日本の実情に合わせて改定が繰り返されました。
律令国家の人民支配
人民支配のあり方
律令制度下で、民衆は戸主を代表とする戸に所属する形で、戸籍・計帳に登録されました。
戸籍は口分田支給のために6年に1回、計帳は課税台帳として1年に1回作成されたのです。
さらに、民衆には租・調・庸・雑徭等の負担が課されました。
租は男女・年齢に関係なく収穫高の約3%の米を徴収するというもので、地方財源に充てられたようです。
調・庸は特産物や絹・糸・綿などを収めるというもので、男性のみに課され、年齢により負担も違いました。
調・庸については都まで運んで収める義務があり(運脚という)、民衆にとって大きな負担となりました。
雑徭は国司のもとで60日間の労役を行うというものです。
また、衛士や防人といった兵役が課されることもあり、その際の武器・食料は自弁が原則でした。
以前と比べてここが変わった!
それまでのヤマト政権下の氏姓制度では、豪族が氏を単位として個別に人民を支配していました。
一方、律令制度下では国家が人民を戸籍に登録し、戸を単位として人民を直接支配していました。
律令制度下では人口増加や飢饉、不正の横行等を背景に律令の原則を保持しつつも実情に合わせて支配の在り方は変更されていったのです。
試験で聞かれやすいポイント
戸籍・計帳が作成された頻度は混同しやすいのでしっかり整理しておきましょう。
また、租は中央に収められたのではなく地方財源にあてられたというのもポイントです。
さらに、租のみ男女・年齢関係なく課されました。
私立大学の文系を受験する人は、年齢によって負担がどれだけ変わるかまで覚えておくと安心です!
律令制度下の地方行政
地方行政のあり方
律令制度下では、全国を五畿・七道に分けて支配が行われました。
五畿とは、大和、山城、摂津、河内、和泉の5国、七道とは、北から東山、東海、北陸、山陽、山陰、南海、西海の7道のことです。
日本史選択の受験生は五畿七道を覚えておきましょう!
五畿に限らず旧国名は覚えておくと安心です。
また、諸国には行政区画として国・郡・里(り。のちに郷と改められた)がおかれました。
国の支配下に郡、郡の支配下に里がおかれ、それぞれ、国司・郡司・里長が任じられたのです。
国司には任期があり、中央から貴族が派遣され、国府(国衙)を拠点に統治しました。
そんな国司は、中央の命令を迅速に地方に伝達する役割、つまり、律令制度を浸透させる役割を担ったのです。
一方で、郡司は終身制で、かつての国造など地方豪族が任じられ、郡家(郡衙)を拠点に統治を行いました。
国司の下に郡司がおかれた背景には、地域社会における伝統的な支配力を統治に活かそうという狙いがあったようです。
しかし、郡司の権力は徐々に縮小していきます。
8世紀初頭、郡司は身分的には国司の下位にありつつ、天皇任命の官職としては国司と対等で、租税の管理・運用にも関わっていました。
しかし、徐々に国司が力を持つようになり、郡司は国司の支配下に従属的におかれるようになっていったのです。
以前と比べてここが変わった!
従来のヤマト政権下では国造制と伴造・部民制が併存していました。
国造制では、服属した豪族に国造の地位を与え地域の支配権を認めたのです。
また、伴造・部民制では、各地に部民を設定し、在地の豪族を伴造に任命し部民支配を命じました。
一方で、律令制度の下では、国・郡・里に行政区画を整理し、国司をトップとし、地方支配組織が一本化されました。
ポイントは、煩雑だった地方支配の在り方が一本化され、整理されたということです!
試験で聞かれやすいポイント
国司・郡司・里長はそれぞれ、どんな身分の者が任命されたのかを押さえておくことが大事です。
国司の下に郡司(かつての国造など)をおいた理由もよく聞かれますよ。
律令制度下の中央組織
中央組織のあり方
律令制度下の中央組織は、二官、八省、一台、五衛府からなります。
ニ官は神々の祭祀をつかさどる神祇官と、行政全般を管轄する太政官のことで、行政の運営は太政官の公卿による合議で進められました。
八省は、中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の8つで、太政官の下で八省が政務を分担したようです。
一台は弾正台で、風俗の取り締まりや官吏の監察を行いました。
五衛府は宮城などの警備を担いました。
これらの組織に属した官吏は位階を与えられ、位階に応じて官職に任じられました。
これを官位相当制といいます。
この制度の下では、貴族や役人には調・庸・雑徭などの負担が免除された他、位階の世襲(五位以上)や減刑などの特権が与えられていました。
律令制度下の天皇
律令制度下では、天皇の位置づけにも変化がありました。
天皇は律令を超越した存在でしたが、太上天皇は実質天皇と同等の政治的権力を持っていたようです。
そのため、天皇と太上天皇が政治的に対立することもありました。
もともと、太上天皇の尊号は従来天皇の譲位とともに自動的に与えられていたのですが、嵯峨天皇の譲位から、天皇(この時は淳和天皇)より尊号を与えられるという形式に変化しました。
これを機に、天皇への権力集中が明確になり、太上天皇は政治的権力を持たない存在となっていったようです。
以前と比べてここが変わった!
従来のヤマト政権は大王を中心に氏と呼ばれる豪族の連合によって形成されていました。
そして、氏姓制度に基づき大王のもとで豪族が政務にあたっていたのです。
一方で、律令制度下では、氏に基づく政治体制の改変が図られました。
様々な政策により、幅広い人材登用や天皇を中心とした豪族支配体制の再整備が図られたのです。
こうした改革を経て、最終的には大宝律令で制度が整い、政務は太政官の公卿の協議を経て天皇により決定されるようになりました。
試験で聞かれやすいポイント
八省が太政官の下に置かれたこと、八省がそれぞれどんな政務を担ったかは聞かれやすいポイントです。
混同しやすいのでしっかり整理しておくとよいでしょう。
おわりに
律令制度は覚えるべきポイントも多く、混乱しがちなテーマです。
だからこそひとつひとつのポイントを丁寧に覚えていきましょう!
難しい分野ですが、だからこそ知れば知るほど新たな面白い発見があるでしょう。
まずは基本的な知識を覚えて徐々に深堀りしていってみてください!